先住日爽上人は、初代住職日博上人ご遷化の後、昭和43年に妙深寺住職としてご就任され、以来、平成12年6月14日にご遷化となられるまで、30数年間にわたり私たちをご教導くださいました。
その間の、改革とも言えるご奉公と、ご弘通発展の功績は数えきれません。今の私たちがこうして喜びあふれるご信心をさせていただけるのも、そうした先住のご恩を頂いているからに他なりません。
ご弘通第一、ご信者第一という日博上人の残された妙深寺イズムをしっかりと受け継ぎつつ、新しい発想のもとで妙深寺を導かれ、よく笑い、歌い、ときに少年のような一面をも持たれていた、ご信者を愛し、愛された先住。
早すぎるご遷化を惜しむ声は、十三回忌を迎える今でも絶えることはありません。
ここで、先住の時代を含めた、妙深寺の歴史を振り返りたいと思います。
《妙深寺の歴史》
昭和初頭、佛立講東京第二支部といわれた乗泉寺門末の信徒が、教化や移転により横浜地区に増加したことを受け、「本英組」「本朗組」が設立され、乗泉寺から受持教務が派遣されるようになりました。後の妙深寺初代住職・清水日博上人も昭和7年に受持教務のご奉公をされています。
その後、横浜地区のご弘通はさらに展開し、親会場建立の声が高まっていきました。そして昭和18年、ついに西区岡野町にあった住居を取得し、待望の「神奈川妙証教会」が設立され、日博上人が初代住職として就任されました。当時の信徒数は約180戸。
昭和20年、戦争末期の横浜大空襲で市街中心地の大半を消失、妙深寺も焼夷弾を被弾しましたが、必死の消火活動により、ボヤ程度で消失を免れました。この頃、450戸までに増加した信徒も、疎開等で離散し、80戸に減少、終戦を迎えます。
終戦後の混乱の中、新しい時代の幕開けとともにお助行などの大弘通運動を展開、信徒は再び450戸に増加。昭和22年、「妙深寺」として寺号公称、内外二千余名の参詣を得て開筵式を挙行しました。以後、日博上人の厳しき中にも慈愛に満ちた指導により、分教区・分連合を繰り返しながら、破竹の勢いでご弘通は進展していきました。
昭和25年、信徒教養紙である「一実」の発行がスタート。戦後の物資のままならない状況ながら、宗門でも信徒教養のための書籍が不足していたことから、全国の希望寺院に配布され、宗門紙的な役割も担い、その後12年間にわたり発行され続けました。また、教養会活動にも力を入れられ、薫化会、青年会の行事は、地域の子どもたちにも開かれたものだったといいます。その後、青少年教育の一環としてボーイスカウト横浜第35団が設立されます。
日博上人は、社会福祉事業にも数多く取り組まれ、昭和25年に児童養護施設「ゆりかご園」を開設。昭和26年からは「箱根療養所」へ慰問活動を実施。毎月お講を奉修し、年に一度の「大園遊会」は、外出のままならない患者さんや職員の方々の何よりの楽しみとして、10年にわたり毎年開催されました。また、昭和37年にはご信者からご有志を募り、マイクロバスを献納されています。
昭和27年、戦争の混乱で音信の途絶えていたブラジルから茨木日水上人が来寺。日博上人と大いに意気投合されました。そのおり、日水上人の要請を受けて、佛立開講百年記念ご奉公の一環として、日博上人主導のもと宗門に海外弘通総局が開設され、昭和30年、第一回ブラジル巡教が実施されました。日博上人は佛立第十一世講有・日颯上人の随伴としてブラジルに同行されています。ブラジルでは、お会式・お講・お助行・講演会などを開催、ブラジル弘通の基礎固めとなる多大な成果を上げられました。このブラジル巡教を記念して、信徒増加が著しかった大和方面のご信者のため、別院建立を発願、大和に土地を取得されました。
昭和39年に日博上人は、第十五世講有日晨上人の随伴として、大病をおして第二回のブラジル巡教に同行されました。
昭和39年、墓地納骨堂建立のため、現在の妙深寺の所在地となる三ツ沢に土地を取得。昭和39年に三ツ沢別院(回向堂)完成。
昭和41年、妙深寺は二級寺院に昇格。その記念ご奉公として、この年、教化五百戸・助行三万回の誓願を立て、それを成就されました。
妙深寺の礎を築かれ、世界を股にかけてご奉公をされた日博上人は、「命をば妙法蓮華に奉りカンナをかけてやりし日もあり」「ワッハッハよきも悪しきも今生はまずはこれまであとは来世で」と豪傑なお導師らしい辞世の句を詠まれ、昭和42年5月4日、法寿62歳を以てご遷化。一つの時代の節目を迎えました。
その後継として、御講尊日晨上人のご指導をいただき、日博上人の息女の夫、長松清涼師(先住日爽上人)が住職代務として就任、昭和44年に正式に第二代住職となられました。まだ20代の若き住職のもと、妙深寺の新たな時代が始まりました。
先住は、日博上人の伝統を護り、さらに発展させるために、日博上人のご年回にあわせた中・長期の弘通計画を立て、教講一体となってご弘通ご奉公に努められました。
昭和44年日博上人御三回忌奉修、記念事業として戸塚別院を建立。また、現在も続く「妙深寺報」の発刊。ご信者みんなが心から楽しめる行事をと、大運動会を発案・開催、以後京浜グループの一大イベントとして30年にわたり毎年開催されました。
昭和47年、日博上人御七回忌の記念事業として、三ツ沢に新本堂建立、移転。岡野町の旧本堂はご信者みんなの手により解体されました。翌48年には開筵式を挙行、2400名の参詣で賑わったといいます。
昭和51年、教養会館建立。ボーイスカウト・ガールスカウトなどの集会室にあわせ、「教務は寺内に住むべき」との先住の意向により、教務住宅が併設されました。
昭和54年、日博上人御十三回忌の記念事業として、大和別院新本堂が完成。昭和62年には、第二本堂(納骨堂を含む多目的会館)を建立。ガラス製の御本尊・御宝前は、洋式の結婚式も行えるようにとの先住の意向で、「新時代の寺院」として当時の新聞やテレビでも報道されました。
平成元年、町内の方との交流のため、第一回観桜会(さくらまつり)が開催されました。現在も春の町内会行事として広く認知され、町内の方々が来寺くださっています。
平成5年4月3日、日爽上人は、観桜会の準備中に自転車で崖から転落、脳挫傷から意識不明となられてしまいました。この大変な事態に対し、信徒は一丸となって昼夜を分かたぬ不眠不休のお助行を開始。49日目となる5月21日、奇跡的に意識を回復され、その後、後遺症も全くなくご奉公に復帰、現証の御利益を私たちに顕してくださいました。
(詳しくは「佛立魂~脳挫傷から奇跡の回復~」のページをご覧ください)
その間、門祖会併せ日博上人御二十七回忌を無事奉修、秋の高祖会には、妙深寺創立五十周年記念式典が盛大に開催され、先住もご参加くださいました。
日博上人が作られた土台の上に、さらに様々な発案によって大きく妙深寺を発展させた日爽上人は、そのご奉公を後進に譲られるように、平成12年6月14日、法寿62歳にてご遷化されました。
その後、日爽上人の子息・清潤師が第三代住職として就任。何よりご信者を大事にされる日博上人からの伝統を受け継ぎつつ、妙深寺報の刷新、ホームページの開設、教化運動の一時廃止にあわせて菩薩心高揚のための「菩薩の誓い」運動の開始、感動あるお会式・お講奉修の改良、納金事務の改善、スリランカ・シンガポールなどへの海外ご奉公、ウェブカメラを使った遠隔地お講の実施など、豊富な社会経験と揺るぎない信心に裏付けされた数々のご奉公を打ち出され、ご信者に愛されるお寺、世間に開かれたお寺として、教講一体となってご奉公に邁進しています。現在、信徒約1600戸。平成24年の日爽上人御十三回忌にパシフィコ横浜にて五千名の大法要奉修と、一級寺院昇格を目標にご奉公に励んでいます。