報恩記念大会」は、平成24年(2012) 6月10日、パシフィコ横浜・国立大ホールにて、4000名を超えるご参加をいただき盛大に開催されました。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。今度はぜひ妙深寺・法深寺に足をお運びください!

開導聖人と開導会


佛立開導・日扇聖人(ぶつりゅうかいどう・にっせんしょうにん)は、幕末の京都で、正しい仏教、日蓮聖人の教えをもう一度人々に弘めるため、私たちの宗派「本門佛立宗」の前身である「本門佛立講」を開かれた方です。

開導聖人は文化14年(西暦1817年)4月1日、京都にて、父・大路浄喜、母・すみ女の間に生まれられ、幼名を仙二郎(せんじろう)と称されました。

開導聖人は幼少から書道や絵画など文芸に秀で、10歳の頃には当時の京都の芸術年鑑である「平安人物誌」に記載されるほど。また、25歳のときには、公家の屋敷で源氏物語の講義されるなど、大変な才能の持ち主でした。

26歳のとき、お母さまを亡くされ、開導聖人は悲しみの淵から仏道を志され、29歳のとき、本門法華宗の本能寺で法華経本門の教えを聞き、深く帰依してされ入信され、行学の研鑽を重ねられ、32歳のときに出家得度をされました。年を重ねてからの得度ということで、周りからのやっかみなど、大変なご苦労がありました。

その後、嘉永3年(1850年)、宗内に三途成不(さんづじょうふ)の論争(動物などの霊がご回向だけで成仏するか否かという、ご回向に対する受け取り方の相違)が起こり、開導聖人は人間界に生まれ変わって御題目口唱信行の修行をしなければ成仏はできないという、本来の仏教のあり方をもとにその説を戒められましたが、多くの僧侶が安易な考えに流され論争は治まらず、ここで開導聖人は、お祖師さまから続く、仏教の正統と純粋性を守り、人々が本当に救われるご信心を実践するため、安政4年(1857年)1月12日、本門佛立講を開かれたのです。

安政6年(1859年)、当時無住で荒れ寺となっていた「宥清寺」を、その修復を条件に借り受け、また、大津への教線の拡大とともに、御題目の命を救われた小野山勘兵衛氏が発願して、佛立講初の独自の道場「大津法華堂(現・佛立寺)」が完成し、また、大阪へもご弘通が及ぶなど、佛立講はまさに破竹のごとく発展を続けていったのでした。

しかし、その余りの勢いに、他宗の僧侶によるやっかみ、度重なる妨害を受け、「清風はキリシタンである」などの根も葉もない告発によって罪もなく牢に入れられること三度、所を追われること八度と法難を受け続けられます。しかし、そうした法難の中からも、京都府から正式な僧侶としての免状を受けられたり、牢内でお教化をされるなど、その都度、明らかな現証御利益を顕しながらご弘通は発展していったのです。

明治11年(1878年)には佛立講独自の法要式である「本門佛立妙講一座」を制定され、明治14年(1881年)、旧宥清寺親会場で勤められた高祖六百回御遠諱の法要には、実に1万5千人を超える信徒が集ったといいます。

明治16年(1883年)、日聞上人に宥清寺住職を任され、ご自身は麩屋町の町屋(現・長松寺)に移って弟子信徒の養成に力を注がれました。

明治23年(1890年)7月17日、大阪の親会場でのお講奉修のため、病を押して舟で向かわれる途中、守口の茶亭でご遷化をされました。御年74歳。最後の最後までご弘通ご奉公のご一生でありました。

●開導会について

開導会(かいどうえ)は、開導聖人のご威徳を讃え、報恩のご奉公とさせていただくため、ご命日を期して奉修される記念の法要です。今年は、パシフィコ横浜・国立大ホールがその会場となります。